社運を賭けた5代目クアトロポルテ

社運を賭けた5代目クアトロポルテ-1  

Evoluzione del modello entrato in produzione nel 1994.

  マセラティ・フェラーリグループは2002年にスパイダーとクーペによって念願の北米市場への再登場を果たしました。しかしこの3200GT系、つまりビトゥルボ時代から20年以上に渡って使われて来たプラットフォームはそろそろ刷新を必要としていました。 実はその影で、全てを一から開発する社運を賭けたニューモデルの開発が着々と進んでいました。それは1997年にフェラーリ傘下となってすぐにプロジェクトが始まった次期クアトロポルテです。 当初のマーケティング的考え方は明確でした。マセラティをフェラーリのオーナーに向けて、追加購入したいと思わせるようなモデルを作ろうというイメージでした。ですから、今までのビトゥルボ系プラットフォームは小さすぎましたし、そのイメージも大きく塗り替えねばならない、と考えました。“フェラーリのようなマセラティ”を作る、というコンセプトで一番重視されたのはそのスタイリングです。当時のフェラーリのスタイリングは全てピニンファリーナが担当していましたから、ピニンファリーナ・ブランドを使うのは、なによりフェラーリらしさを表現するポイントです。 実は、1980年にピニンファリーナからの提案としてフェラーリ・バッジの付いた4ドア大型サルーン、「ピニン」が発表されています。フェラーリ初の4ドアモデルということで、大きな注目を集め、モンテゼーモロも大いに乗り気であったようですが、結果的に商品化はされませんでした。フェラーリとして4ドアモデルを出すべきかというブランド論、そしてメルセデスなど長年のノウハウを持ったライバル達に立ち向かう生産能力の点でも賛否両論だったのです。しかし、モンテゼーモロはこういったモデルをいつの日か世に出したい、という思いを持っていたようです。

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歴史を遡れば、1947年にデビューしたマセラティ初のロードカーA61500もピニンファリーナ製のボディを採用していました。しかし、まもなくエンツォ・フェラーリとピニンファリーナの間でイタリアのラグジュアリー・セグメント・スポーツカーのデザイン開発に関してピニンファリーナはフェラーリ以外のメーカーを手がけない、という“密約”が交わされました。その為、マセラティのスタイリングをピニンファリーナが手がけることはありませんでした。

La vettura fu presentata al Salone di Ginevra del 1947.
Vettura carrozzata da Pininfarina

  しかし、マセラティがフェラーリのグループとなった今や、その“密約”の制約を受けることはありませんので、晴れてマセラティのスタイリングをピニンファリーナが担当することになったのです。もちろん、そういった政治的、マーケティング的理由のみで5代目クアトロポルテのデザインが決まった訳ではありません。   当時、そういったスタイリングの決定に大きな力を持っていたモンテゼーモロ(フェラーリ会長でありマセラティのトップであった)はイタルデザイン・ジウジアーロの社長でありデザイナーであるジョルジェット・ジウジアーロとの関係が深く、ジウジアーロ案に対する期待も高かったですし、フィアット・デザインセンターからもエンリコ・フミアのプロポーサルが出ていました。   一方、フィアットCEOのカンタレーラもフェラーリとマセラティのマネージメントに親会社として深く関わっていたのですが、彼もマセラティのサルーンに関して強い意見を持っていました。彼はコンセプトカーとしてピニンファリーナによって作られた「プジョー・ノーチラス」のイメージこそ、次期クアトロポルテに相応しいと考えていました。そのモデルのスタイリングを担当したのは、他ならぬピニンファリーナの日本人デザイナーであったのです。

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